私を片付ける

良い人生は自ら望み自らつくる

玄関は「これから入ってくるモノ」のために空けておく

クリスマスは友人が10人ほど来てくれて、みんなでパーティーをしました。

片付いた部屋でクリスマスパーティーをする!

という明確なビジョンが出来ると、あんなにも何ヶ月も片付かなくて困っていた部屋がたった数時間で片付きました!

 

 

この数ヶ月、片付いていない部屋に慌ててしまっていましたが…

 

・何が片付いていないのか明確にわかった(子供のモノ)

 

・今片付いていなくても大丈夫(出産と仕事が重なって一時的にこの状態になっただけ)

 

と認識できたおかげで、焦りが収まりました。

 

慌てる必要はない、と気がついてから、急に視界が開け、片付けが進みました。

人生の、詰まりが取れ始めたような感覚です。

 

といっても、まだ完全に片がついたわけではなく。

部屋のある一箇所を、片付いていないモノを置くスペースにしました。

玄関を塞いでいた数々の未処理のモノも一箇所に、玄関ではなく家の中に。

とにかくまだ片のついていないモノをまとめて、そこは今は片付いていなくていい場所にするだけで、

気持ちも楽になり、家の中が急速に片付きました。

 

玄関も、今置いてあるのはベビーカーだけです。

あんなに色々置いてあったのに、スッキリしたものです。

一昨日来た友人に、「うちこんな玄関が綺麗だったことない!すごい!」と言われたほど。

彼女は、つい数日前までの玄関を知りません!

 

たった数時間で、めちゃくちゃだった家が、とりあえずでも綺麗になった。

これは、この本でいうところの、幸せ原則、“心と現実の状態が一致”している状態にできたからだと思います。

 

座敷わらしに好かれる部屋、貧乏神が取りつく部屋

座敷わらしに好かれる部屋、貧乏神が取りつく部屋

 

心と現実の状態に矛盾があると、不幸を感じる。

本来片付いているはずなのに、片付いていないからイライラして焦る。

常に心がストレスを受ける。不幸。

でも今は片付いていなくても大丈夫、と認識すると、イライラしません。

 

 

最近、玄関を、片付けて出てきた「これから出て行くモノ」を置く場所にしてしまっていたのですが、

玄関に置いても片付いたことにはなりません

捨てると決めたモノも、捨てて家を出ていくまでは、れっきとした「家にあるモノ」。

今は時間がなくて処理できないのなら、それまで置いておく場所を決めて置いておけばいいだけなのに、

焦って早く捨てたいからと、玄関に置いておくことで自分を焦らせ、毎日自分にストレスをかけていました。

それで何か解決するかというと、しないんですよね。

本当に、ただ毎日自分を嫌な気持ちにさせるだけ。

 

考えたら玄関はむしろ「これから入ってくるモノ」の場所な気がします。

これから入ってくるモノが入って来やすいように、基本的に玄関にはモノを置かないのが大前提だと思うのですが、

私が北海道人だからでしょうか、玄関を冬は冷蔵庫として使ってしまうのは…。

大人数の集まりがある時なんかに、入りきらない飲み物をちょっと置いておいたり。

冷蔵庫に入りきらないケーキを置いておいたり。

でもね、これ、アリだと思うんです。

だってそれらは、「これから入ってくるモノ」が一時的に待機してる状態。

「これから出て行くはずのモノ」が、出て行けずに溜まっていた状態とは、性質が全然違う気がします。

これから出て行くモノは、出て行くまではせめて暖かいお家の中で待機してもらっていた方がいいはず。

玄関に置いて、「邪魔だ邪魔だ、早くやらなきゃいけないのに時間がない、ああもう、早く捨てたい!」なんて気持ちを毎日向けられてやっと捨てる、というのは、

モノとのお別れとして最低でした…。

 

モノはどれも私を幸せにするためにやってきたはず。

初めて来た時は、喜んで迎えたモノなのに、寒い玄関に放置だなんて、ひどいことをしたと思います…

 

玄関は特に、すっきり、これから入ってくるべき良いモノが入ってきやすいように!

 

引き続き、モノ別の片付けを進めます。

貧乏神はうちにいるのか?

 

今、この本を読んでいます。

なかなか面白いです。

座敷わらしに好かれる部屋、貧乏神が取りつく部屋

座敷わらしに好かれる部屋、貧乏神が取りつく部屋

 

基本の片付け方は、こんまり式ときめき法と共通しています。

 

自分がどうしたいのかクリアになる

必要なものだけ選び取れるようになる

片付く

 

 

貧乏神、という視点が面白い反面、

片付けないと貧乏にまでなってしまう、不幸になってしまう!と、神経質な私は強迫観念に囚われそうな気もします。

まだ最後まで読んでいないのですが。

 

 

この本を読み始めた当初は、

「やばい、産後、実母が貧乏神を置いていった!?」

とすら思っていたのですが、

半分くらいまで読んだ今思うことは

「貧乏神なんて、うちに入って来れるはずがない」。

ないです!

仮に置いていこうとしたって、うちは居心地が悪くて住み着けないはず。

 

 

あんなに片付いた部屋を手に入れて、人生の選択も思いきれた私なのに、

産後すっかり片付いていないことで、

「もう人生おしまいか!?

私も親のようにこのまま散らかった部屋と、めちゃくちゃな人生を転がり落ちてしまうのか?!

それだけは嫌だ!片付けないと!」

と、途端になにもかもうまくいかなくなったような気がしていたのですが、

ただ慌ててしまっているだけなのではないか?と思いました。

片付いていないことで、生活に支障は出てしまっているけれど、

人生そのものがうまくいっていないか?というと、そうではない気がします。

だから、怖がらなくていいんです。私。落ち着け、私。

 

私は一度、片付けたことがあるんだから、今散らかっていても、これは一時的なことです。

 

冷静に見ると、

 

・子供のモノが増えたこと、その置き場所が定まっていない。

・また少し人生が進んだので、今とこれからの自分にはもういらないモノが出てきた

・子供のいる環境に合わせて部屋の使い方、収納場所を変えたい。

 

これだけのことです。

本当は出産前に済ませておく仕事だったのですが…

切迫早産の恐れありで、予定より早く身動き取れなくなってしまい。

かつ、予定よりも早く産後復帰してしまったがゆえに、この遅れを取り戻すための時間がなかった。

 

それだけのこと!

どうでしょう、何も、慌てることはありません。

失う恐怖にかられると、人はモノを溜め込もうとしてしまいます。

せっかくうまくいっている人生を失いたくない気持ちに駆られると、

モノは溜め込む反面、お金は遣ってしまう。

 

産後、私は何か失ったでしょうか。

少しの時間くらいじゃないでしょうか。

けれどその時間で得ているものは多いです。

 

・愛情深い夫はいつも協力的で、優しく、産後もこれまで以上に愛をもって私たち家族を支えてくれている

 

・子供は健康で、とにかく可愛い。よく寝てくれる子だし、育児自体に悩みはほとんどない。

 

・夫の家族は医療関係者ばかり。私を受け入れてくれていて、いつもサポートしてくれている。

 

・子育てを助けてくれるポジティブで明るい友達が、産後むしろ増えた。みんな子供を可愛がってくれていて、本当に助かっているし、嬉しい。子供も楽しそう。

 

・ブランク少なく復帰したことで大変なこともあるが、家の中にいるよりもやりがい、刺激があって楽しい。世界が広がって、結果育児にも良いことが多い。

 

 

このように、何も失ってはいないし、親のようになるだなんて、怖がる必要もありません。

怖がってしまった私は、要らないものも自分で集めてしまった気がします。

新興宗教のようなおかしな情報や腹の立つ情報を目にしてイライラしてるのに、そういうことを言ってくる友人とだらだら付き合ったり、

もう会いたくないなと思っていた母親につい自分から連絡をして嫌な気分になったり。

妊娠出産子育てと、初めてで責任も大きいことを抱えて不安で、かつ孤独を感じていたのだと気がつきました。

 

今、片付けがまた必要なのは、これからの人生をどうしたいのか考えるターニングポイントが近いからなんでしょう。

 

堂々と、自信を持って、片付けを進めていこうと思います!

それすなわち、堂々と自信を持って人生を歩んでいくということ!

やめました、自然派ママとの付き合い。自然派の犠牲チルドレンの私が語る。

妊娠してからというもの、なんだかイライラ、もやもや。

妊娠中、私がしていたことといえば、

日々入ってくる怪しげな情報を跳ね返すためのエビデンス探しばかりな気がします。

何をやってるんだ、せっかくの時間を。

赤ちゃんのための編み物をしたり、のんびり過ごしたかった…

 

トンデモを信じて、いらない情報を運んでくる人とは距離を置くことにしました。

モノだけでなく、友人や情報の選別は大事。

私、人一倍そういう類の話に敏感です。なぜなら、私の家族は新興宗教の犠牲者だから。

 

 

実母や自然派の先輩ママが、良かれと思って言ってくる些細な一言。

伝統、習慣の名の下に当然のような顔をして入ってくる情報。

私が大っ嫌いな、トンデモやエセ科学

 

その度に、実母には「それは間違ってるよ、ここにこれこれこう書いてあるから」と返信してきました。

母に特別、強いこだわりがあるわけでもないので、大概の場合、「あら、そうなの」で終わるのですが、

歳をとっているせいと、宗教やこれまでの生き方から基本的にそういうマインドセットになっているので、また似たような別の情報を持ち出してくるだけで、いたちごっこ

その度に私は辟易として、ぐったりするのですが、何度言ったところで、

本人に問題意識もないし、結局、彼女の知識がアップデートされることは永久にありません。

彼女の価値観が変わったりもしません。

 

また、基本的には他人の子育ての方針には口を出すべきじゃないと思っているので、先輩ママの友人には言えません。

どうせ言っても信じないものです。

下手に刺激をしても、良くない結果にしかならなさそう。

「色んなのがあるのね〜」と適当にかわしてきたのですが、

精神的にはとてもかき乱されます。

 

私の両親は神道系の新興宗教にどっぷりでした。

手かざし系の代替医療を取り入れた宗派の中でも、昭和から平成にかけてのある時代、特に信者の人生を犠牲にした献金やマインドコントロールが激しく、問題となった宗教です。

裁判などがあったため、旧体制を改め、今現在は以前ほど危険性は少なくなった

ようですが、基本的な信仰は変わっていません。

現在では、美術館なども保有して、まるで何事もなかったかのような顔をしていますが、多くの犠牲者たちへの正式な謝罪や賠償は未だありません。

子供時代の私は、この誤った自然派信仰のど真ん中にいました。

病気やアレルギーになったら、「体の中の毒素が外に出ようとしているから、いいことだ」として、

薬や病院はNG。

手かざしと、”御水"という名の、ただの水を一口。

痙攣を起こしたら、「狐の霊が憑いている」。

私の弟が、先天性の心臓病を患っていたことから、両親は弟を人質に取られたような状態でした。

長い話になるので、この件はまた別記事で書こうと思います…

ちなみに、最も信仰に人生を捧げた父は、脳卒中で死にました。

56歳でした。

卒中を起こして倒れているのを母が発見した時、救急車を呼ばずに、手かざしをしました。

3分間の、手かざし。

場所を変えて、また3分間。

脳卒中などの緊急を要する救命措置において、この3分間が意味するところを理解できない人間はいないでしょう。

少なくとも、真っ当な教育を受けた現代の私たちなら。

 

私は、子供の時から家族で一人だけ、この宗教に懐疑的で、ずっと抗ってきました。

それによりもたらされた家庭内暴力は凄まじいものでした。

また、家庭は金銭的にも破綻していたため、両親は複数回、法的な破産手続きをしています。

 

 

自然派のお産、自然派育児、代替医療

実家を出てからはとうに過去のものになったこれらのトンデモ話が、妊娠してからというもの、ちょこちょこ入ってくる。

まことしやかに、あたかも科学的裏付けがあるかのように荒唐無稽な根拠をもってして、≪善意≫の熨斗をつけて、

ふんわり優しく、ピンクと白のデザインをまとって、笑顔で私たちの生活に入り込もうとしてくる"なんでも自然が一番いい"という考え方。

 

基本的に私はネットの情報よりも、本を読むようにしているのですが、

もし怪しげな情報を聞いたら、必ず、その反対意見も検索します。

すると、「発信された情報のその後」を見つけることができます。

 

大概の場合、

・論文データ捏造があったことが後に発覚

・データの取り方に明らかな問題があったことが指摘されている

・特定の思想を持った団体が絡んでいる、またはそれらからの不正な献金が発覚

・論文が撤回されている

・科学的根拠なし、と医師が否定している

・裁判沙汰になって、誤りが訂正されている

などが、わりとすぐ出てきます。

ちょっとワードを変えて検索するだけで、すぐ出てくる「発信元のその後」なのですが…

なぜか、何年も前に既に否定されて決着がついているはずの、オリジナルの情報だけが、まことしやかに伝えられていってるんですね。

 

検索結果は、「こうであってほしい」という検索ワードに正直です。

たとえば、リンゴが体に悪い、という説を聞きかじって調べようとしたとき、検索ワードは「リンゴ 毒」となります。

すると、リンゴは毒だと主張している人たちのページばかりが出てきます。

それらは全体のうちのごくごく少数派の誤情報や古い情報であったとしても、そのような全体像は検索結果からは見えません。

カルト的トンデモでは、一般に信じられている説、科学や医学を否定しますから、

「リンゴ 健康」で検索して出てくる大多数の真っ当な情報はもう"悪"になってしまう。

リンゴも食べすぎたりリンゴだけを大量に長期間食べれば体に良いとは言えないですよね。

毒と薬も、そういう関係にあるものじゃないでしょうか。

 

「〜らしいよ」なんて話を聞いた時は、以下のことが大切だと思います。

いつ、誰が、どこで、どう、言っていたことがエビデンスになっているのか。

そのエビデンスに信憑性はどのくらいあるのか。

根拠となる実験やリサーチはどう行われたデータなのか。

論文を書いたりアカデミックなリサーチをする上では当然の、こういう基本は、大衆には無視されがちです。

忙しいママたちの中に、わざわざエビデンスエビデンスまで検索して検証したりする人が何人いるでしょう。

疑似科学を基にしたふわふわした情報、検索結果の頭の方に出てくる、不確かな媒体が生活の隙に入り込んでくるのは、もう許せません。

 

日本語だけでなく英語で検索してみるだけでも、触れられる情報の質も量も変わってくるのですが、

だからといって英語圏は何でも正しい情報ばかりかというと、そうではないようです。

フェイクニュースが勢力を広げているのは世界共通の問題です。

それなのに、日本の情報には「欧米では〜」と、あたかも欧米が常に正しく新しいかのように書き立てるものも多いです。

欧米だからといって必ずしも先進的で革新的で、正しいわけではありません。

 

 

自分と自分の家族を守れるのは、正しい情報・知識だと思っています。

だから、もう、おかしな情報を私の人生に持ち込むものは、捨てる。

不要な人脈と、情報は片付けます。

服をまだ捨てた話 さようなら暗い色

3年前に片付けをして以来、服なんて持っているのは少ないと思っていたのですが…

今改めて片付けてみると、以前はシャネルの影響もあり、かっこよくて気に入っていた黒い服が、

なんだか今の自分には合わない感じがしました。

黒は便利だけれど、暗い感じが、母になった自分がなりたい自分とはもう違うんですね。

それに今日も黒を着ていたら、肩に鼻水がこびりついて白いのがカピカピ。笑

黒やダークカラーの知的な感じより、もう少し元気で明るい感じが欲しい。そう思いました。

そんな服、持ってない!

とりあえず、ときめかない服、「なんとなくもうこの服を着ていた自分の時代は終わった」感じがするものは捨てました。

 

黒のライダースジャケットも、なんだかゴツゴツして、違う感じ。

もう、こんな、戦う必要ないかな、みたいな。

何と戦っていたんでしょう、私。

 

犬の散歩用の、アウトドアっぽい服。

以前は犬がいる生活だったので、アクセサリーをつけてオシャレ、よりも、とにかく山の中をガツガツ犬と歩けるような服が必要でした。

これを捨てるのは辛かった。

もう、今は犬がいない生活なんだな…と思うと、本当に辛い。

 

また、犬と暮らしたい。

でも、どの犬でもいいわけじゃない。

ペットとの別れは仕方がないけれど、いつも辛い。

けれど今は、子供がいます。

元気な男の子なので、アウトドア用の物で、息子と遊んでいるときに着ているイメージがするものは残しました。

ダウンジャケットとか。

いかにもママっぽいけど。いいじゃん。て思います。

 

毛玉だらけになってしまったタイツも廃棄。

なんとなくもう、よれっとして、生理の時にしか履きたくないような下着も、交換時期。

 

柄は好きだけれど形が好きになれなかったTシャツやチュニックも、ありがとうと言ってさよなら。

生地で子供の服を作ろうかなと思っていたものも、きっと作らないので、さようなら。

 

片付けてみると、本当に気に入ってる服ってほとんどないことがわかりました。

一番気に入っているのは、紫のニットのVネックワンピース。丈は長め。

上品だけど、セクシーさもあって、いい感じ。

 

こういう風になりたいなあと思う人のファッションをもっとよく見てみよう。

 

玄関の現状がひどい -理想の玄関とは-

何が問題なのか、今の生活の何を変えたいのか、しっかり自分で把握するって大事ですね。

書き出してみると意識が変わります。

現状をよくみてみましょう。

 

<玄関>

 

・捨てるつもりの壊れたドッグゲートが置きっ放し

 

・キッチンに使って、まだ玄関とかで使おうか迷っている床材の余りが下駄箱の上にドン!

 

・車輪が取れて使えず、直すつもりのショッピングカート、取れた車輪がいつもあちこちに転がって邪魔

 

・生協の個配の青い箱に、リサイクルの牛乳パックがガサガサ載ってる、出しておくのを忘れて発泡スチロールの山が2週連続で溜まってしまうこともしばしば

 

・畳んだベビーカーと、ベビーカーインサート、クッション枕、ブランケットが山になってぐしゃっと積みあがってる。

ベビーカーを出して準備するのは本当に大変。ベビーカーを玄関から出すのも一苦労。

 

・資源回収の紙の山。

 

・資源回収に出す予定の段ボールの山

 

・捨てるつもりのスーツケースに、捨てるつもりの着物の山

 

・夏に修理する予定だった交換用網戸がロールのまま転がってる

 

・もうずっと掃除機かけられていない玄関。砂や石がザラザラ。

 

・靴の裏を拭く時間?いつあるのよそんなもの!

 

 

信じられない。

これ全部、あの小さい小さい玄関に置いてあるなんて。

ベビーカー、よく使えてるな自分。

風水とかは好きじゃないけれど、こんな玄関じゃ、良い運気が入って来るはずもありません。

 

・生協の出し忘れが多い

・ベビーカーの準備にてんてこまいで毎日遅刻(時間に正確な夫ですら最近毎回遅刻)

 

と、生活に支障が出ているのは明白。

 

理想はどんな玄関でしょう?

 

☆ すっきりとして邪魔なものがない

☆ 写真フレームを壁に飾りたい

☆ ベビーカーの準備がすんなりできる、ベビーカーの出し入れがしやすい

☆ 生協の個配の出し入れがしやすい

☆ 友達がたくさん来てくれる玄関

☆ こまめに掃除して綺麗にしたい

☆ 朝爽やかに出かけられて、夕方帰ってきてほっと心休まる玄関

 

 

だいぶクリアに見えてきました。

最大の問題は、

・「〜するつもり」で「していない」モノが場所を占めたまま、早数ヶ月。

なこと!

 

捨てると決めたものの、粗大ゴミに出す手配をしていなかったり、メルカリやジモティーに出そうと思ってまだ出品すら出来ていないもの。

資源ゴミや粗大ゴミ。

主にゴミが玄関に溜まってるって、なんてことでしょう。

でも、粗大ゴミの手配をするために、サイズを測ったり電話をしたり…

今日も出来なかった、、の繰り返しなんです。

 

そもそも、いくら産後で時間がないといっても、最近思うのは、私の時間の使い方は問題あるんじゃないかってこと。

 

この本、注文しました。

読むつもり。

だけど本当に読まないと意味がない。

読むよ!

 

いつも「時間がない」あなたに: 欠乏の行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

いつも「時間がない」あなたに: 欠乏の行動経済学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

≪まとめ≫

 

玄関には、やるつもりでやれていない過去の課題が山積み。

おかげで今の生活に支障をきたしてしまっている。

靴は捨ててばかりで少ないけれど、気に入っている靴もない。

 

 

でも、場所ごとには片付けません。

モノ別に、順番にいきますよ。

 

 

 

私を片付ける

「私を捨てたい。」

今私が思うことです。

散々色々なものを捨ててきたけれど、私が一番捨てたいのは、私自身。

自分の悪習慣を断ち切り、ネガティブな悪循環に陥ってばかりの自分を変えたい。

 

≪近頃の私≫

家の中は散らかりっぱなし

仕事や課題はいつも締切ギリギリに慌ててやる

毎日必ず遅刻

毎日家に忘れ物

出かけたら忘れ物、落し物

ご飯は疲れて作れない

スーパーで何を買ったらいいかわからなくてただうろうろ

未読メールが500通

化粧する時間もなく髪もボサボサ

服も下着も昨日と同じ

とにかくいつもイライラ、あたふた

 

こうして並べて書くと酷いですね。

産後2ヶ月で復帰したのは間違いだったかも…

でもこれ、出産前からなんです。

だから、赤ちゃんのせいじゃないと思う。

私、ADHDなのかな?と真剣に悩んでしまいます。

でも、違うと思う。

ちゃんと整った状態で落ち着いてやれば、ちゃんとできるはずなんです。

以前は、出来ていた時もあったんです。

ただ散らかってくると、何もかもが雪だるま式にうまくいかなくなる。

 

実は3年ほど前、片付けをしました。

その時の私の部屋は本当に悲惨。

芋虫まで出てきました。ひどい。

けれど片付けをしたら、ちゃんと綺麗になって、さらに人生が変わってしまいました。

様々な過去と向かい合う作業は、辛いこともありましたが、必要な作業でした。

片付けの結果、今の私は、あの時の私が望んでいたものは手に入れています。

 

ではなぜ、"また"片付けるのか。

ちゃんとやればリバウンドしないはずの片付け、人生に2回目の片付けがあるなんておかしいはずです。

人生があまりに変わったために、必要なもの・望むものも変わったので、また片付けが必要になったと思っていました。

それはその通りなのですが、

思えば、前回の片付けでは本当に本当に私が望むものを望みきっていなかった気がします。

前回は、当時の生活の枠組みの中でしか考えていなかったかもしれません。

 

自分はどうしたいのか。

どんな自分になりたいのか。

将来どこで何をしていきたいのか。

思えば、今完全に迷っています。

片付けは、自分と向き合う作業。

片付けを終える頃にきっと見えてくるのではないかと思っています。

 

過去を葬り、未来のために、

これからの人生のために片付けたい。